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    後で馬がいないと云ふので騒ぎだつた。

    富田はすぐ又自分の方に話をひきとつた。

    盛子は妊娠していた。

    もう一月あまり前から気づいていたのだが、はつきりしなかつた。云はうか云ふまいかと迷つていた。たつた今、大きな麦藁帽子の縁で半ば隠されてはいるが、むくれ上つた幅の広い肩がぴよいぴよい目の前を歩いてゆくのを見ているうち、突然云ひやうのない親しさの感覚に捕へられた。打ち明けてみたくなつた。何にも如らないで、こんなに変な風に脚を丸出しにして、私にはおかまひなしに先を歩いている!

    横合から冷かすやうに口を入れたのは雑貨店の庄谷だつた。痩せた上に黒く日焼けがし、固く乾いたやうな顔には小さいが白味の多い眼がいつも人を小莫迦こばかにするやうに閃いていた。彼はさつきもその眼で入つて来たばかりの房一を見、房一が挨拶すると「あン」といふやうな声を出しただけで、すぐに話に聞き入つていたのだつた。

    年は五十過ぎ位、見るからに小柄な貧弱きはまる痩せつぽちだが、何となく自分の身体を大きく見せようと絶えず心を配つているらしい足の踏ん張り方をしていた。手足も、顔の皮膚もうすく日焼けがし、乾いて、骨にくつついていた。が、頭髪はそれとは反対に驚くほど真黒で、きちんと櫛目を入れて分けられ、鼻下にはやはり念入りに短く刈りこんだ漆黒の髭をはやしていた。それは何かちぐはぐな印象で、中農の地主にも見え、町役場の収入役のやうでもあり、又どこかに馬喰ばくらう臭いところもあつた。だが、一貫して現はれているのは、小柄の者がさうである場合特に目立つ、そして見る者の咽喉のあたりを痒かゆくさせるやうな、あの横柄わうへいさであつた。

    二人は自転車をひきずつたまゝ近よつた。

    両隣りに挨拶するのも、土産ものを贈るのも、ここに長く滞在すると思えばこそで、一泊や二泊で立去ると思えば、たがいに面倒な挨拶もしないわけである。こんな挨拶や交際は、一面からいえば面倒に相違ないが、またその代りに、浴客同士のあいだに一種の親しみを生じて、風呂場で出逢っても、廊下で出逢っても、互いに打解けて挨拶をする。病人などに対しては容体をきく。要するに、一つ宿に滞在する客はみな友達であるという風で、なんとなく安らかな心持で昼夜を送ることが出来る。こうした湯治場気分は今日は求め得られない。

    「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」

    この家はこの娘のためになんとなく幸福そうに見える。一群の鶏も、数匹の白兎も、ダリヤの根方で舌を出している赤犬に至るまで。

    「さあ、くはしいことは判りませんね」

    房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでいるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。

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