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さう云ひすてて、大きな音を立てて下駄をひきずりながら立去つたのだ。
と云つたまゝ、盛子は房一の顔を見てくすりとした。そして、ばさばさ音をたてて大きくひろげてみせた。それは神官の着るやうな袍はうだの指貫さしぬきに模したものだつた。おまけに、ボール紙で造つた黒い冠、笏しやくの形をした板切れ、同じく木製の珍妙な沓くつだのいふ品々が揃つていた。
その塗りの色の落ちついた外まはりの築地塀、よく拭きこまれた廊下、塵一つ落ちていない部屋々々、渋い雅致のある床の置物だの掛軸、これらすべての上に現れているどこか神経質でさへあるよい趣味と堅固さ――さういふ外見にかかはらず、大石医院では年来をかしなごたごたが繰り返されていた。
男は眼を閉ぢた。何も答へなかつた。
何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしている彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つているのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つている爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつて撫なで上げられてでもいるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つている彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでいるのを感じているやうに見えた。
「いゝよ、君。帰りたまへ、その方がいゝんだから」
徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
「どこの帰りかね」
あの鍵屋の法事の席には小谷も居含せた。彼はそこで殆どはじめてと云つてもいゝ位に高間房一を見、その思ひ切つた振舞を目にした。房一の去つた後では誰も何も云ひはしなかつた。彼等はたゞ黙つて見送つただけであつた。だが、房一の印象は強く皆の頭に灼やきつけられた。何かしら挑いどむやうな、強したゝかな足どり、――だが、それは表面筋が通つていて誹難することはできなかつた。
万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟ひっきょう、浴客の少かったためでもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗る窮屈であった。
房一は礼装をして朝早くから出かけた。手はじめに家のある河原町の下手の区域を歩いた。このあたりは大石医院のある上手の区域にくらべると、ずつと場末臭い町並みであつた。その一等端は桑畑になつて、そこいらまではどこか町中の通りらしく平坦な道路は、急に幅も狭せばまり、石ころが路面に露あらはれていた。もう家はないと思はれる桑畑の先きに一軒の駄菓子屋があつて、その隣りには一寸した空地をへだててこのあたりには不似合なほどの大きな塀をめぐちした家があつた。それは河原町の旧家に多い築地塀を真似たものだつたが、様式は京都や大阪にありさうな塗壁の塀であつた。その家はびつくりさせるやうな大きさにもかゝはらず、昔風な家ばかりを見慣れた房一にはつい一月前に建てたやうに見えた。だが、もう四五年は経つているのである。紺屋といふ屋号で知られているこの家は河原町では一番新しい地主だつた。又、恐らく一番の物持ちだらうと云はれた。その真新しい家の印象とは反対に主人の堂本は恐しく引込思案の男だつた。彼はその財力には珍しくどんな町内の出来事にも関係するのを避けていた。それどころか、彼は何もしなかつた。たゞ夏近くなると始まる鮎釣りの季節にだけ、堂本は仕事着めいたシャツに古股引、大きい麦藁笠といつた姿で川岸に現はれるのだつたが、それさへなるべく人目にかゝりさうな場所をはなれて、上の方から釣手が下つて来るとだんだん下流の方へ、時には一里位下に遠ざかつてしまふのであつた。さういふ堂本にしてみれば、住居を新築したことだけが唯一の人目につく仕事だつたらう。それも、入口に立つてみると、ひどく用心堅固な感じの、こんなに周囲が畑ばかりで覗きこむ人だつてある筈がないのに、絶えず閉め切つた太格子の二枚戸が見えるだけで、内側の様子は皆目判らないやうに出来ていた。
房一は目を輝かせて云つた。
「あなたは、多分――」